人間の知覚|公認心理師試験
◆知覚とは、刺激を受動的に感受することではなくて、人が情報を能動的に「つかみとる」働きであることをわかりやすく説明する。
■私たちの心が外界の物事を感じたり知ったりするはたらきは感覚あるいは知覚と呼ばれる。この感覚、知覚の働きこそが私たちの心が外の世界から情報を得る唯一の手段である。私たちの生体は何かを知覚するとき、感覚受容器によって情報を取り入れ、脳においてさまざまな、情報処理をおこなっている。
さらに、それを基に外界に対して適切な行動のための指令をつくり、実際に行動をとっている。情報処理が行われる際は、それまでの記憶や認知されていたものが大きく影響してくる。つまり、私たちが知覚しているものは、刺激を単純にそのまま受け入れた結果ではないということがわかっている。
★ 「図と地の知覚」 について考えてみよう。
誰もが一度は見たことのある図(2人の黒い横顔と白いカップ)
*この図はルビンの壺(又は盃)と呼ばれている。
「ルビンの壺」を見たとき、黒い横顔を発見する人、または白い壺を発見する人の2通りに分けられるが、この時、受動的に感受していれば、まとまりとしての形は見ることができない何らかの解釈が行われたとき、ひとつのまとまりとして認識され、白い壺や、黒い横顔をみることができる。さらには、健全な人間であれば、自由に壺から横顔に反転(切り替え)させて、知覚することができる。
しかし、何らかの強い思い込みや、周囲の環境によっては、壺も横顔も見ることができなくなり、壺はみえても横顔をみることができない、つまり図と地の反転がうまくいかなくなる場合がある。
このことは「錯視」により、わたしたちは周囲の環境や、認知のゆがみ、あるいは思いこみなどにより、「事実を歪んだ状態でみてしまう」ということが、おこるためである。
私たちは、ものを見るとき、これまでの経験的知識から抽象化されて形成されている何らかの枠組み(枠型:スキーマ)が選び出され、それを適応することで、再生想起時には、その枠を土台として、大筋を理解する。つまり「知覚は刺激に対して忠実ではなく、その現実的意味に忠実である」現実的意味とは、個人の経験的知識によって異なるものと考えられる。
ジェローム・ブルーナー(アメリカの心理学者)は、経済的に恵まれない子どもたちは、経済的に恵まれた子どもたちに比べて、貨幣の大きさを単純な円よりも大きく知覚する傾向が顕著であるという報告をおこなっている。(「知覚と錯覚」宮本敏夫/著 P242)恵まれない子どもたちは、日々の経験から貨幣の価値を大きく認知したことがわかる。なかなか手に入らないものは「価値が大きい」という枠組み(スキーマ)が形成されたわかりやすい例であると言えるよう。
私たちは日常、様々な刺激を自分の経験とスキーマをもとに、好きなように解釈している。例えば、雪の日にうっかり滑って転倒し整形外科に通院した経験があったとしよう。すると、似たような状況で雪を見た時、「危険」だとか「注意」しようとか「外出は中止」しようなどと、自分自身の安全を確保するために行動も制限してしまう可能性が大きい。パニック障害の場合にも、たまたま「電車の中で苦しくなった」という状況を、「電車=発作」と関連づけてしまい、その意味から離れられない状態に陥る。
また、幼少時期に親(又は養育者)からの拒否を受け続けると「自分は人から愛されることはない」といったスキーマが形成され、そのスキーマを背景とし「誰とも仲良くなれない」「誰からも愛されない」といった否定的な歪みをもった自動思考を繰り返すことになりかねない。
これらの例では、過去の苦痛で不快な体験や精神的な破綻を繰り返さないように処理した結果、ひきこもり、パニック、対人恐怖などに関連していくことがあると考える。
私たちがより良く生きるために形成されるはずだったスキーマも、過去の経験や体験の積み重ねによって、記憶、認知、知覚、感覚は、不都合なスキーマとして形成されてしまうことが少なくないのかもしれない。
自分自身を意識することで、「ものの見方の枠(スキーマ)」に気づき、自覚、認識することで、自分の「スキーマ」は、いつ、どのようなことがきっかけで形成されたのかを、探ってみるのもおもしろい。
心身ともに健康に、そしてよりよく生きるためには、自分自身の中で、日常生活に不具合を起こしそうなスキーマを、ぜひ「認識」し、「改善」していきたいものだ。
仙台市 田村みえ 「人間の知覚」(東北福祉大学 心理学レポート)